色彩文様研究所
霰(あられ)文
2021年5月28日
霰(あられ)文
御利益ー
霰模様 の小紋。平安時代、石畳の細小さいなもの、すなわち霰小文を織り出した織物を「霰地」、略して「霰」とも言った。近世は型染めで、鮫(さめ)小紋などの規則正しく配列したものを言い、裃(かみしも)などに多く用いた。規則正しく並べたものを「行儀霰(ぎょうぎあられ)」、ふぞろいに連ねたものを「乱れ霰」と称する。[1]
別に 何を文様化したということなく、幾何学的な小さい同形の文様を規則的に配置表現したもので、霰が道に降り敷いたような感じからの呼称である。これは奈良時代の後期の作品に早くも現れている。その後平安時代中期から公卿(くげ)の礼装で束帯の時に必ず着用しなければならないものの一つは表袴(うわばかま)であって、三位以上は表白綾で浮線綾(ふせんよう)の窠(か)に霰文と限られていた。つまり花型の窠に石畳の霰が地文とされたのである。この窠に霰文は公式文様のようになって各時代を通じて用いられた。それが江戸時代に入り、歌舞伎役者の佐野川市松が霰文を特に好んで衣裳に用いたことから、誰いうとなく市松文様と呼ぶようになった。しかし市松文様の小さいものに限って霰文といい、桂離宮松琴亭母屋の襖に白と藍であらわされた石畳文は霰とはいわない。茶人の小堀遠州が霰文を殊の外愛し、そのためこの文様は広く行なわれるようになった。[2]
文献等の用例
- 酒本枕 – 六〇・あやのもん「あやのもんは、あふひ。あられ地」(10世紀頃)
- 源氏 – 行幸「むらさきのしらきり見ゆる、あられぢの御小袿(こうちぎ)」(11世紀前)
- 久安百首「衣手ぞさえわたりけるあられぢは我が裳(も)のきしに着ればなりけり<安芸>」(1153)
- 三条家装束抄「小石畳」(1200頃か)