色彩文様研究所
唐草文
唐草文
御利益未来永劫 神仏加護
日本 において唐草文は、中国から伝来した蔓草文様としてとらえられてきたが、文様そのものは、エジプト、メソポタミア、ギリシャなどに起源をもつ。シルクロードを経て六朝時代の中国にもたらされ、やがて日本へと伝わった。
一方、中国では、西方から伝わった蔓草文様とは別に、殷・周時代から蟠螭文(ばんちもん)といって、龍をあたかも蔓草のように連続させる文様も存在した。中国ではこのふたつのタイプの蔓草文様が並行して用いられていたため、日本でも同じように双方のパターンが入り混じるかたちで調度品などの装飾に取り入れられていった。
たとえば、飛鳥時代の法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)の須弥座(しゅみざ)の柱に付けられた金具には、蟠螭文から発達した蔓草文様が、奈良時代の薬師寺金堂の薬師如来像の光背(こうはい)や台座の四周には、西域を起源とする蔓草文様がみられる。いずれも日本では、中国から伝来した唐草文様として愛好された。
さらに時代を経ると、唐草文は、日本人の好みを反映させながら、宝相華唐草、蓮唐草、牡丹唐草など、他の花々と組み合わせてバリエーションを作り出していった。身近なものとしては、江戸時代後半に縁起のよい柄として人気があった唐草文様の風呂敷が知られている。[1]
唐草文様 は蔓性の植物を空間充填した文様で、もとは遠くギリシア、ローマの連続文様のパルメットから発展したとの説もある。常に成長するような無限の発展性を秘めた唐草は、やがて梅や菊など蔓を持たない花までも巻き込んで発展する。[2]
つる草 のつるや葉のからみ合ってのびている様子を図案化した文様。古く、エジプトやメソポタミアに始まり、日本には中国を経て伝わったもの。忍冬(にんどう)・桜・菊・葡萄・宝相華(ほうそうげ)・牡丹・蓮華唐草などがある。
「唐」はあて字で、「絡草(からみぐさ)」の略ともいう。忍冬は、西洋のパルメットに通じるものとされる。[3]
馬肥(うまごやし) という地に這う蔓草を文様化したものともいい、何ということなく絡みまつわる草の文様とし、また唐風の草の文様であると説く者もあって一定しない。その名称の起りは兎に角とし、曲線状から成る文様である。唐草文は人類が装飾意慾を発揮した当初から用いられたもので、世界各地にその遺品が見られる。わが国では宮城県米山町網場(あば)から出た唐草文の岩版は縄文時代末期のもので入組みのものと三叉のものとが巧みに彫られた唐草文様である。古墳時代後期の「唐草文馬具」は静岡県御小家原古墳からの出土で、唐草文を鋳造であらわしている。それより以後は各種のものに盛んに用いられ、法隆寺金堂の瓦、各種仏像の台座及び光背、金銅灌頂幡、鎌倉時代の「黄釉唐草文壺」、梵鐘の上帯・下帯の唐草文等あらゆるものに見られる。最も通俗的なものとして夜具蒲団を包む浅葱(あさぎ)の唐草の大風呂敷は今もなお使われている。[4]
文献等の用例
- 宇津保 − 内侍督「あやけづりいだしなどしたるに、からくさ・鳥など彫(ゑ)り透かしてあるに入れて」(10世紀後)
- 源氏 − 玉蔓「かの末摘花の御れうに、柳の織物のよしあるからくさを乱れ織れるも、いとなまめきたれば」(11世紀前)
- 随筆・安斎随筆 − 二九「からくさとて物の文に書くは草の蔓のからみたる体にてからみ草と云ふ事なり」(1784年頃)
- 旧主人<島崎藤村>五「唐草文様の敷布団の上は」(1902)
- それから<夏目漱石>一四「銘仙の紺絣に、唐草模様の一重帯を締めて(1909)
- 歌行燈<泉鏡花>一「唐草模様(カラクサモヤウ)の天鵝絨の革鞄に(1910)
- 地底の歌<平林たい子>ある思春期「何でも豪奢(ごうしゃ)でなくてはならない調和から、当時流行の日の丸の額さえ唐草(カラクサ)模様の地紋のついた布団のような厚ぼったい緞子(どんす)の額ぶちに収めて掲げてあった」(1948)
- 夢殿観音<竹山道雄>「かくて、幾何学的な抽象形をくりかえす唐草(カラクサ)模様風の装飾は、多くの古代芸術において極度の発展をとげている」(1953)
- ふたりとひとり<瀬戸内晴美>「その影は螺旋の手すりの唐草模様におおわれて」(1972)
- 抱擁<瀬戸内晴美>二「唐草模様の鉄柵を白く塗った半円形のテラスの上に」(1973)