色彩文様研究所
菊文・菊花文
菊文・菊花文
御利益疫病退散 立身出世 技芸上達
キク(菊) の花や葉などの形を用いた文様。特に区別して、キクの花弁の文様を「菊花文」、枝についた花文様を「折枝菊」、また直立するそれを「立菊文」とも言う。梅、竹、蘭とともに四君子の一つ。皇室の紋章は十六弁八重表菊、宮家共通の紋章は十四弁一重裏菊。中国では不老長寿の効があるとされ、日本には奈良時代に渡来したようであるが、『万葉集』には詠まれていない。[1]
菊 は香りが良く、奈良時代にまず薬用として中国から伝わった。菊を浸した水を飲むと長寿が保てると中国の故事から、長寿の象徴になった。鎌倉時代には意匠として大流行し、桃山時代には秋草の一つに加わった。[2]
重陽の節句 (ちょうようのせっく)に菊酒を飲んで、菊の花を鑑賞し、長寿を祝い延命を願う風習がある。この風習が日本に伝わり、宮廷行事に取り入れられた。平安時代中期以降は、秋の花としての認識が定着し、残菊という重陽を過ぎて咲いている菊を愛でる日本独自の美意識もみられるようになる。菊花文は、後鳥羽上皇が愛用したことから、明治期になって皇室の紋章と定められ、いまも一般的には十六花弁の八重菊の濫用は慎まれている。[3]
菊文様 の小袖は江戸時代に大流行し、沖縄の型紙には菊文様が盛に使われ、古伊万里の「菊文面取り瓶」、柿右衛門の「菊孔雀文壺」、古久谷の「菊文徳利」、仁清の「菊花車文茶碗」、乾山の「菊文金彩向付け」と名工達が菊花文で技を競っている。茶の湯の釜には京釜師辻与次郎の菊桐文「政所釜」、淡々斎好(このみ)の「菊蟹釜」がある。七宝には京都修学院離宮中(なか)の茶屋客殿の「菊葵文七宝引手」、桂離宮新書院の「菊花手樋七宝釘隠」、「菊花文七宝水滴」、漆芸品には紀州熊野速玉神社の「菊唐草蒔絵手箱」、金工には同じく熊野速玉神社の「籬菊双鶴文鏡」が何れも国宝とされている。家紋としての菊には「御紋章」をはじめ各宮家の菊紋、そのほか一般の「十葉菊・かぶろ菊・葉菊・浮線菊・菊一文字・菊水・乱菊・八重菊・籬菊・まん寿菊・割菊・井桁菊」など種々ある。[4]