色彩文様研究所
蝶文
蝶文
御利益疫病退散 延命長寿
中国 では「蝶」を「ボウ」と読み、八十歳を意味する語と同じ発音であることから、長寿のシンボルとされた。日本へ伝来したのは奈良時代である。当時の蝶文は正倉院宝物からうかがえるように、主文様である花や鳥に添えてあらわされていたが、平安時代に公家装束の有職文様として取り入れられることにより、独立したモティーフとして確立する。その後、蒔絵手箱や染織、陶磁器などの工芸品に用いられた。[1]
日本人 が蝶を愛でることは唐より学んだようだが、正倉院の宝物に現れる蝶はまだ添え物として扱われている。平安時代中期以後に和様化が進み、有職文様の向い蝶や伏蝶などようやく蝶を本格的に文様に取り入れるようになった。舞い遊ぶ蝶の姿は華麗な装飾文様になった。[2]
チョウ(蝶) を図案化した文様。その羽柄の美しいことから特にアゲハチョウの文様が最も多い。芝や薄との取り合わせが多い。形としては、丸く図案化した「蝶の丸」が多く、一匹の「臥蝶(ふせちょう)」や二匹の向かい合う「向かい蝶」、三匹の「三つ蝶」、四匹の「浮線蝶(ふせんちょう)」などがある。[3]
蝶 は奈良時代から文様として用いられ、正倉院御物の「金銀絵箱」「紺地花卉蝶文錦」「花樹双羊蝶文白綾」などにその可憐な姿が見られる。平安時代の「花鳥蝶文」の和鏡、鎌倉時代の「牡丹唐草蝶文手箱」「蝶蒔絵手箱」の金具の蝶、室町時代の「姫松金襴」の蝶文、桃山時代の「松蝶丸文縫箔能装束」、江戸時代の「菊に蝶文唐織能装束」など各時代を通じて盛に用いられている。江戸中期以降は小袖に使われ、明治に入って絵絣にまで織り出され、また明治26年の米国シカゴ万国博覧会には「百蝶図壁掛錦」が出品された。蝶文のモチーフとされた蝶は各種の蝶であるが、その中、揚げ羽の蝶が最も多い。家紋にされているものも大方この蝶である。蝶の文様化の様式も種々雑多であるが、いずれも優しく美しい姿を簡略に精緻に表現して、時代相と創造性とを十分に発揮している。[4]
文献等の用例
- 金毘羅本平治 – 中・待賢門の軍の事「赤地の錦のひたたれに、はじの匂の鎧に、てうの丸の裾金物」(13世紀前)
- 源平盛衰記 – 三五・義経院参事「蝶丸(テウノマル)の直垂に紫下濃の小冑は」(14世紀前)
- うもれ木<樋口一葉>一〇「蝶(テフ)の丸(マル)花の丸鳳凰の丸<略>彼れも美なり是れも美なり」(1892)
- 羽倉考 – 二「冬の下襲の文を名目抄などに臥蝶とあり」(18世紀中)
- 弁内侍 – 建長三年七月初「ふせんてうのうす物」(13世紀中)
- 歌舞伎・伊勢平氏梅英幣 – 三立「本舞台、三間の間、紫にふぜん蝶(テフ)の幕張り」(1820)
- 三条家装束抄 – 直衣事「春冬面しじら綾。文浮線蝶円」(1200頃か)
- 装束抄「袍文<略>又摂録の時、夏の文、浮線蝶の丸なり」(1577頃か)