色彩文様研究所

鯉文

鯉文

御利益合格祈願 心願成就

数ある魚 のなかでも、鯉は龍門という急流を上って龍になるとされることから、中国では出世魚として尊重され、登龍門という語も生まれた。日本でも同じく立身出世のシンボルとして定着し、武士の元服の際の祝膳に供されることもあった。端午(たんご)の節句にあげる鯉のぼりも、この故事を受け継いだものである。鯉魚文は江戸時代の染織や陶磁器に数多く描かれ、とくに、中国伝来の波間に跳ね上がる鯉の姿は、荒磯文(ありそもん)として愛好された。[1]

中国 では鯉は龍門という急流を登りやがて龍になるとされ、出世魚として尊重された。日本でも端午の節句に鯉のぼりを立てるように、鯉が流れに逆らって泳ぎ、また滝を登る姿が好まれた。文様では荒い波間を勢い良く泳ぐ姿が取り上げられる。[2]

コイ(鯉) を図案化した文様。特に、鯉の滝登りの「昇鯉文」は、黄河の急流にある竜門という滝を登ろうと、多くの魚が試みたが、わずかなものだけが登り、竜に化すことができたという「後漢書 – 党錮伝・李膺」の立身出世の故事による。
コイはコイ科の淡水魚。うろこは円鱗で、その数が側線上で三六枚前後あることから六六魚(りくりくぎょ)とも言う。[3]

は古くから河魚の長として大切にされ、中国にては龍門にある鯉はその流水険にして急、深さ千仞に及ぶにもかかわらず、克(よ)くこれを上る。上り終れば化して龍になるという。これをわが国では鯉の滝昇りという。鯉の鱗は36個あるということから六六魚ともいう。和漢共に鯉を出世の魚としてわが国では端午の節句に鯉幟を立てることは記すまでもない。瑞相祝賀の意を寓し、またその生魚を俎上にした時の姿から男子の度胸に通ずるものとして尊重される。それ故絵画・彫刻・鋳造の題材とされ、文様化して各種工芸品に用いられる。明治時代につくられた「鯉文様中形染」は鯉と波を写実的に大きくあらわしたもので、いわゆる「江戸っ子」気分を遺憾なく染め出している。江戸後期の島山美広の「鯉の図」鍔(つば)は2尾の鯉を巴状に写実表現をしたもので、純銀製の鑑賞的装飾鍔というべきである。中国の大明嘉靖年製の銘のある「魚藻文壺」は熱海美術館に蔵されている。藻や菱の間を泳ぐ鯉は文様ではああるが生気を帯びている。伊予絣で鯉と波を織り出したものがあるが、絣としてはよく鯉の感じを出している。名物裂の「荒磯裂」は波間におどる鯉を文様としたもので、鯉と波とがよく調和し、真にその名にふさわしい。

荒磯文
「ありそ」は「あらいそ」の約で、万葉集に「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」とあり、また古今和歌集の序に「我こひはよむともつきじありそ海の浜のまさごはよみつくすとも」とあるように、荒磯の海を「ありそみ」という。波打ちよせる磯の風情を文様にしたものが荒磯文で、その波を装飾的に美しい曲線とし、その間に魚の跳ね上がっている様をあしらって織り出したものがある。これは名物裂の一つとされる「荒磯裂」である。荒磯文には岩と千鳥を添えたものや、岩壁に松をあしらったものもあって、その意匠は多様で自然の情景を巧みに文様化している。これらの文様は織物・染物をはじめ鏡艦・漆器などに用いられ、多くの名品が今に伝えられ、また今日も種々なるものに使われている。[4]

文様の「昇鯉文」
昇鯉文
文様の「荒磯緞子」
荒磯緞子
鳥居株式会社蔵
文様の「色絵荒磯文鉢」
色絵荒磯文鉢
田中丸コレクション蔵

文献等の用例


脚注

  1. ^ 並木誠士『すぐわかる 日本の伝統文様』東京美術 2006年
  2. ^ 『日本・中国の文様事典』視覚デザイン研究所 2000年
  3. ^ 『文様の手帖』小学館 1987年
  4. ^ 岡登貞治『新装普及版 文様の事典』東京堂出版 1989年