色彩文様研究所

桜文

桜文

御利益五穀豊穣 豊作祈願 未来永劫 富貴繁栄

平安時代、 それまでの梅を愛好する風習に代わって、貴族たちは桜花の宴を催すようになった。日本在来の桜の優美さや趣を認識するようになり、花といえば桜を意味するほどに日本の代表的な花となった。それにともない、文学や美術にも取り入れられるようになり、貴族の身の回りの品々に文様として描かれるようになった。源氏物語絵巻(十二世紀前半、徳川美術館)には、桜文様の衣装が描かれている。
平安時代に愛でられた桜は山桜で、文様も山桜を意匠化したものであったが、室町時代には八重桜(やえざくら)も好まれるようになり、足利義満(あしかがよしみつ)は京都の鹿苑寺(ろくおんじ)(金閣寺)に八重と一重を混ぜて植え込んだ。さらに桃山時代以降、枝垂桜(しだれざくら)など桜の種類は増し、桜文も多彩な意匠化が進む。江戸時代には、さらに桜川や桜楓(おうふう)、花筏(はないかだ)など自由な組合せが試みられ、調度類、食器、武具、車輿(こし)、小袖などにほどこされた。また、吉野山や嵐山など桜の名所が文様化されることも多かった。[1]

は平安時代に貴族達に愛好され、それまでは「花」と云えば梅であったのに代わって桜に定着した。花が散る風情とともに、流水の流れにまかせる桜の花も日本人の心をとらえ多く意匠化された。家紋には八重桜・山桜・大和桜・九重桜・平安桜・細川桜など数多い。本格的に庶民の文様になったのは江戸時代である。[2]

サクラ(桜) の花を図案化した文様。その種類によって「枝垂桜(しだれざくら)」「八重桜(やえざくら)」などとも呼ばれる。サクラは古くから和歌や絵画にもとり上げられ、現在日本の国花とされるように、「花」と言えばサクラを指すことが多い。[3]

は古くから愛好され、記紀・万葉にも記され、平安時代から宮廷の桜花の宴、醍醐寺などの桜会(さくらえ)、官女の花合せ等が催され、平安後期に内裏炎上し、その後かつて梅のあった所に桜を植えて「左近の桜」と呼ばれ、ただ「花」とだけいえば、桜の花を意味するほどに親しまれた。それだけに衣服・家具・什器・武具・車輿の文様として広く用いられた。従って桜文の遺品は頗る多く、室町時代の「花白河蒔絵硯箱」の桜文は新古今集の和歌によったもので、桃山時代の「桜芦紅葉文」の刺繍は華麗で、江戸中期に仁清の「吉野山絵壺」は満山皆桜の趣をあらわし、仁阿弥道八の「桜雲文色絵の鉢」は桜花の形に拘泥することなく感覚的に描き、色鍋島の「桜に束ね薪文中皿」は鍋島独特の華やかさを示している。江戸後期の「流水に桜文赤地振袖」は枝垂桜を裾から背へ大きく繍いし、両袖全面を埋めた派手なもので、歌舞伎の八重垣姫の衣裳に使ったものといわれる。西本願寺黒書院の「花筏七宝釘隠」は渋くて高雅、肥後の林又七の「吉野川の図」は透し彫り金象嵌の鐸で、実用を超越した繊麗なものである。沖縄の型染には殊に多く、枝垂桜・枝桜・散し桜・葉つき桜と種々意匠をこらして用いられている。家紋には「八重桜・山桜・大和桜・九重桜・枝桜・平安桜・細川桜・蔓桜」など種々ある。京都平野神社・奈良県吉野神社・神戸の生田神社など桜を神紋とし、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする各地の浅間神社はすべて神紋は桜である。[4]

文様の「桜」
文様の「桜ちらし」
桜ちらし
文様の「桜立涌」
桜立涌

文献等の用例

  • たまきはる「さくらのちりばな織りうかし、にしき、織り物の裳唐衣などにも」(1219)
  • 増鏡 – 八・あすか川「柳だすきを青く織れる中に桜を色々に織れり。萌黄の打衣、さくらをだみつけにして」(14世紀中〜後)
  • 思出の記<徳富蘆花>八・一〇「藤色に桜模様の半襟に」(1901)
  • 軍歌・若鷲の歌<西条八十>「若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜にいかり」(1943)

脚注

  1. ^ 並木誠士『すぐわかる 日本の伝統文様』東京美術 2006年
  2. ^ 『日本・中国の文様事典』視覚デザイン研究所 2000年
  3. ^ 『文様の手帖』小学館 1987年
  4. ^ 岡登貞治『新装普及版 文様の事典』東京堂出版 1989年