色彩文様研究所
流水文
流水文
御利益ー
水は古来 神聖なものとして扱われてきた。日本では、水が豊富であったためか、雲と同様に、千変万化する姿がさまざまに文様化されている。弥生時代の銅鐸には、幾何学的にあらわされた流水がみられる。
流水文は、水の流れる様子を数条の曲線であらわした文様である。平安時代後期の三十六人歌集の料紙には、雲母摺りや墨流しの技法を用いて、趣の異なる流水文の装飾がほどこされ、和歌に彩りを添えている。植物や器物との組合せによって数多くのバリエーションをもつが、江戸時代になると、花を組み合わせた文様構成がひとつの定番となっていく。
流水文のなかでも、能の観世宗家の定文である観世水や、尾形光琳の描く水の表現から生まれた光琳水など、自然の再現からはなれて図案化されたものには固有の名称がつけられている。[1]
弥生時代の 銅鐸に流水文がはやくも見られるが、水の流れをかたどったものなのか別の呪術的な文様なのかは不明である。しかし水の流れの蛇行した線は日本では特に好まれ、流水に様々なモチーフを配した多くの風情ある文様が作られた。また流水はしばしば人生の浮き沈みに例えられた。[2]
弥生時代に 盛行した文様の一つ「流水文」は、平行線の端部を屈折させてS字状に連ねた並行曲線文様。時代が下るに従って「燕子花に水」「片輪車に水」「紅葉に水(竜田川)」などいろいろな文様と組み合わされている。また、独特の様式を持った水文様として「観世水(かんぜみず)」がある。[3]
人類の 生活に密接な関係のある水は、古くから文様にとりあげられ、弥生時代の銅鐸にこれが見られる。流れる水を簡略ながら巧みに文様化していて、これが流水文のわが国における最初のものとされる。その後いろいろの流水文が創案されるが、流水を文様化する様式としては、これが必然の着想で、また水文様の源流というべきである。アイヌ文様も流水文であるといわれるが、その文様をアイヌ語でモレウと云い、モレウは「静かに流れる」の意で、またアラ・モレウといわれるのは片渦巻を意味することから考えても流水文であることがうなずかれる。[4]
文献等の用例
- 狂歌・千紅万紫 − 酒色財「観世水(カンゼミヅ)瀬川もかれてよし原もやけ野が原に年ぞくれゆく」(1817)
- 青春<小栗風葉>夏・三「青味の勝った茶の友禅縮緬(いうぜんちりめん)へ白で観世水(クワンゼミヅ)を出して、オリイブと海老茶(えびちゃ)で浮草か何かを合触(あしら)った腹合わせの帯」(1906)
- 婦系図<泉鏡花>後・四九「朱緞子(しゅどんす)と銀と観世水(クワンゼミヅ)の稍(やや)幅細な帯を胸高に」(1907)
- 細雪<谷崎潤一郎>上・五「『これにしなさい』と、妙子が観世水(クワンゼミヅ)の模様のを選び出した」(1948)
- 橋づくし<三島由紀夫>「これは白地に藍の観世水(クワンゼミヅ)を染めたちぢみの浴衣を着た」(1956)